人生の全てはシナリオ通りに進んでいる【小林正観】

こんばんは、ツイてる坊主です。

本日は、斎藤一人さんが尊敬している、小林正観さんの「人生の偶然は全てシナリオ通りの定め!!」というお話をしていきたいと思います。

おそらく、多くの方はこの「地球」も「人間」も「起こる出来事」も、全ては偶然の現象だと思っているでしょう。

神様や必然というのは証明することが難しいものですし、明らかに「え?こんな偶然ってあるの?」と思うような経験をしたとしても、「でも、たまたまだよね。。」と、そう解釈することしかできません。

ところが、小林正観さんが40年以上もかけて「超常現象」や「超能力」などを研究してきた結果、「人間は生まれてから死ぬまでの全てをシナリオに書いてきた」という結論に達したのです。

つまり、この世に誕生する前の段階で、親を選び、住む国や家、名前、何才で何が起こる、誰と出会う、自身の決断、就職先など、こういったことを事細かに決めた上で、生まれてきているということ。

この話は本当に信じられない内容だと思います。もし、何だか怪しいなと感じてしまった方は、おとぎ話のようなものだと思って気軽にとらえるようにしてください。

個人的には、斎藤一人さんや小林正観さんの大ファンなので、この話を本気で信じています。

ただ、こういった話というのは、自分があの世に還るまで確信を持つことができないものなので、人に教えたり広めたりしても、ほとんどの方が納得することはないでしょう。

一番大事なことは、この話に対して「詐欺だ」と切り捨てるか、それとも「自分の人生にプラスに生かす考え方はできないだろうか」と解釈するか

例えば、この世の全ての現象がシナリオ通りだと仮定すると、過去の人生で、自分が決めた選択や判断に対して、一切、悔やむ必要がなくなりますよね。

だって、予め決まっていたわけですから、『全ての選択、全ての判断が正しかった!』ということになります。

また、未来に対しても、極端に心配したり、不安を感じたり、クヨクヨ悩んだりせず、人生のシナリオは決まっているのだから、「きっと何とかなる」「大丈夫」「やれるだけやろう」「なるようにしかならない」と、こういった考え方ができるのではないでしょうか。

このように、何か人から面白い話を聞いた時、それをうまく活用するためには、『自分に都合よく考える癖』を持つと、毎日が楽しくなってくるものです。

中には、成功者と呼ばれる先駆者が、「自分に幸せやご褒美をもたらしてくれる!」と思い込んでいる方もいるようですが、受け取る側の人間に「拒否する心」や「疑う心」があれば、どんなにいい話も活かすことができません

だから、その話が事実かどうか、正しいかどうかを見極める目も大事ですが、それよりも、今日からその話を「どうやって毎日の生活に楽しく取り入れていけるだろうか」という目を持つことも大事なのです。

何か、本を読んだ時も、講演会に参加した時も、その人を批判したところで、あなたには何一つ得がありませんからね。

むしろ、地獄言葉の五戒「愚痴・不平不満・泣き言・文句・悪口」を言えば言うほど、自分の人生が不利な状況に追い込まれていくことになります

このことに気付いた人は、家族、友人、仕事、社会などに対して、「自分が損することはやめよう!得になることだけをやればいいんだ!明るく解釈して有利な状況を作っていこう!」と、そういう生き方ができるようになるでしょう。

それでも、自分の人生がうまくいかない、どうしても悩み苦しみながらの生き方しかできません!という方であれば、意識することはこの一つだけ。

『念を入れて生きる』

この言葉だけを頭の中にとどめて、毎日を過ごしてみてください。

小林正観さんの「念を入れる」という教えは、一般的にいわれているような「念じていれば願いが叶う」とか、そういった類のものではありません。

『念』という字を書く時は、「今」の「心」と書きますよね。

つまり、念じるというのは、ただひたすら、今の心を大事にする心のことを示しているのです

毎日が苦しいと感じているあなたは、「今、目の前にいる人」を大事にしていますか?

そして、「今、自分がやるべきこと」を一生懸命、大事にこなしていますか?

この人生で、強く念じる場面があるとするなら、それは昨日のことでもなければ、明日のことでもありません。常に、今の心だけです。

もし、本当に、自分が決めたシナリオ通りに生きて、シナリオ通りに死んでいくのであれば、もうこれ以上、ジタバタすることに意味はないのです。

例え、到底受け入れられないような出来事が起きたとして、「なんで自分だけこんな思いをしなきゃいけないんだろう」と感じたとしても、全ては仕方がないこと。

全ての答え合わせは、あの世に戻った時にしかできません。きっと、「偶然」だけでは片づけることのできない、何らかの「必然」があるのでしょう。